③なぜ、『めでたい苗字』は自転車 を拭き続けるのか?
そこに現れたのが、私の部屋を引き上げてロビーにやって来た不動産屋さんだった。彼の動きは、てきぱきと素早く的確だった。
「現在お宅の部屋の借主は、初老のご夫妻と10代のお嬢さん、3人のご一家です。ご覧のように、あれでは今夜寝ることもできませんから、弊社が空き部屋を探して仮住まいを確保します。荷物は、このロビーとロビー横の倉庫にこれから移動します。すべてうちの若い衆に手伝わせますから、ご安心ください」
不動産屋さんはそう言うと、「アポが入っているので」と言い残してサクサクと去って行った。
それをきっかけに、「僕もまだやることがいろいろあるので」と、『めでたい苗字』も腰を浮かした。
「今日のところは、大家さんにしていただくことはもうありません。落水状況は逐次、電話でお伝えします」
私の頭は、だんだんと状況を飲み込みつつあった。まさに〈降って湧いた〉水漏れに、今は、何もすることがないことも理解できた。だが、不動産屋さんのようにサクサクとマンションを去る気にはとてもなれなかった。ロビーに座ったままの私の視界を、慌ただしく動き回るお巡りさんたちの姿が流れていく。
茫然としたままの私は、席を立った『めでたい苗字』の後をわけもなく追った。彼は倉庫から雑巾を取り出すと、自転車置き場に向かった。私もとぼとぼとその後を付いて行く。
自転車置き場に着いた『めでたい苗字』は、自転車を一台一台丁寧に拭き始めた。うつろな目でその様子を眺めていた私は、しかし、次第に「この忙しい日に自転車を磨く」という、彼の不思議な行動に疑問を持った。
そんな私の疑問に答えた『めでたい苗字』の言葉は衝撃的だった。
「あのですね……ロビーの監視カメラに犯人が映っていたんです。そのビデオは警察が押さえたので、もうお見せできませんが。それが、その……住民が動揺するとまずいのでここだけの話にしてくださいよ。映っていたのは、真っ裸で血だらけになってマンションを駆け回っている犯人の姿だったんです。犯人はその後ここにも来たようで、自転車に血痕が残っているんですよ。住民が発見する前に早く拭き取らないと」
話しながらも自転車を拭く手を休めぬ彼を見ながら、私は胸のうちで徹底的に叫んでいた。
これって、全然「ちょっと事故」じゃないじゃん!
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